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田新太郎、奈良忠男らがその中心であった。

民政党からの立候補は、なんら問題なく現職の山本修太郎、大里周蔵がきまり、とくに大里には郡南部五カ町

村の有力者が南鹿民政倶楽部を結成し、後援態勢を固めた。ひとり政友会のみは、深刻な候補者難におちいって

いた。同党の中央幹部川村竹治が八月二〇日墓参のため花輪に来町し、花輪倶楽部における歓迎会席上、川村会

が結成され関善次郎の会長就任があって情勢が動いた。川村竹治の強い出馬要請をうけ、一時北海道に難を避け

た関善次郎であったが、旭川まで川村の使者某課長が説得に出向くに及んで遂に立候補を決意せざるを得なかっ

た。

これまでの選挙にみられなかったこととして、無産政党からの立候補があった。大正一五年九月に結成された

労働農民党秋田支部は、早くも同年一二月に分裂し新たに日本労農党・社会民衆党が結党された。鹿角の日本農

民組合傘下の尾去沢坑夫組合、曙村松谷支部、同三ケ田支部、尾去沢三ッ矢沢支部は日本労農党に入り、花輪に

は労働農民党支部が組織された。その労働農民党から黒沢由五郎が、さらに日本労農党から米沢岩吉が立候補し、

鹿角の無産派勢力の根強さを示すこととなった

かくて三つ巴の選挙戦が激しく行われた結果、関、山本の当選、大里の次点に終った。なおこの選挙は、最高

点の関善次郎にかかわる選挙費用制限外支出という思わぬ違反事件に発展し、翌三年一一月関は辞任という事態

に追いこまれた。

普選による初めての衆議院議員選挙は、県議選に次いで三年二月に行われた。前回の大正一三年第五回選挙で

の鹿角郡有権者は二、三一一人であったが、この時の選挙人名簿確定人員は一万〇、八二五人をかぞえ、およそ