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兄と、花輪二、曙一、宮川二の政治的自由獲得労農同盟であった。後者の政獲同盟は、三・一五事件で解散させ
られた労働農民党のいわば再建準備会で、大山郁夫らの指導のもとにあった。
四年七月、田中義一内閣は前年の関東軍による張作霖爆殺事件の責任を負って辞職した。二大政党による政権
交代論どおりに、民政党総裁浜口雄幸が新内閣を組織した。
川村竹治と
山本修太郎
イが国の政治は、大正七年原敬内閣から昭和七年犬養毅内閣に至るまで、多数党が内閣を組織
するいわゆる政党政治が行われていた。この間において中央の政情を大きく反映しながら、県
政につよい影響力をもった鹿角出身者として川村竹治と山本修太郎をあげることができる。
川村竹治は、すでに内務官僚としてあらわれ、明治四四年から大正七年までに和歌山県、香川県、青森県の冬
県知事を歴任し、原内閣が成立するや内務省警保局長に挙げられた。最高潮に達した普選運動のなかで、デモク
ラシー運動、労働運動に対し一段と弾圧方針をつよめていたこの内閣の、治安と選挙対策の責任者として敏腕を
ふるった。同一〇年五月より拓殖局長官に転じ、のち貴族院議員に勅選され一一年六月加藤友三郎内閣における
内務次官に就任した。同年一〇月南満州鉄道会社社長いわゆる満鉄社長の任に就き、鋭意満蒙開発の事業を統蛙
した。一三年七月の退任直後、満鉄機密費不正支出事件として、政友本党の総選挙費捻出のため同氏による機密
費流用があったかのごとく報道され、毀誉褒貶は政治家の常とはいえ残念なことであった。
昭和二年に入り、川村竹治は政友本党を脱党して政友会に復帰した。政友会副総裁水野錬太郎との深い縁故に
よるものであった。鹿角郡は当時、県会議員山本、大里の二名とも本党から出し、本党全盛といわれていた。こ
こでもっとも去就を注目されたのは県会議長・本党支部長山本修太郎で、県政上恩顧をうけている本党衆議院議