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され総辞職となるまで、わずか三カ月の短命な大臣であった。
山本修太郎は、県政界の重鎮として、大正一二年一〇月から県会議長となり、同一四年、皇太子殿下(和
昭和
天皇
)本
県行啓に際し、内藤湖南博士草案の議長奉迎文を朗読奉呈した。昭和二年一〇月の議長改選では政友会の議長に
移ったものの、同六年一〇月には再び山本が議長に選出されている。この時の選挙では、民政党の山本に対し政
友会一二名が投票するという異例のことが行われた。なおその後鹿角からは、同一四年関威(〓)が
民
政
一が副議長に就
任している。山本・関とも終戦時まで引続き県会議員の職にあった。
注1秋田魁新報昭和二年三月六日、七日付
仕2同同二年七月二九日、同八月六日付
〓3同同二年八月二九、三〇、三一日付
注4同同四年三月一九日付
注5同大正一三年七月二二日、同八月一七日付
二、不安定な町村自治
町村の苦悩
昭和に入って、普通選挙法にもとづく選挙が相ついで行われた。大幅に増加した有権者を、冬
政党が争ってみずからの陣営にとりこんだため、町村から集落にいたるまで、選挙のみならず
あらゆる問題が政争の形をとるようになった。