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た。赤坂田問題は、大正六年に端を発したもので、この赤坂田一帯約五町歩を錦木部落有地に払下げんとして、

村民一七〇余名が連署して出願を行った。しかしこの地には以前から開墾者がいて収穫をあげており、この出願

に反対して占有権保持の訴訟を提起した。

この裁判は、常に原告の勝訴となり、被告等は大審院まで上告したが、大審院の判決も原告の占有権を明確に

認めるものであった。敗訴した村民側の大多数は連署の署名を取り消し、この係争から手を引いて局外に去った。

あとに残った被告側の数名は、当時の七、六〇〇円余ともいわれる莫大な訴訟費用を借財として負わざるを得な

くなった。当然この訴訟費用の救済問題がおこり、補填策として赤坂田係争地と白山山林立木の無償交付の請願

連動が唱えられはじめた。しかし、個人の借財弁償のために村有財産を交付するのは不適当であるなどとする有

力な反対意見もあって、容易には解決の途が開けなかった。

この赤坂田問題は、昭和一〇年に入ってなお尾を引き、処理の一環であった開墾地払下、白山山林立木の払下

にからむ贈収賄事件に発展した。四月に村長の背任・収賄、助役の収賄ほか村議等の贈収賄の容疑など取調人員

三〇余人におよぶ事件として送検された。その後の経過は詳らかでないが、同年一一月の鹿角時報は「二十年の

紛争ようやく円満解決」の見出しで、大要次のように報じている。錦木村の平和を撹乱し続けた赤坂田、神田川

原の開墾地の問題は、今回大館税務署の調停斡旋により解決をみることとなった。すなわち係争地の貸借を打切

り、一先ず国有雑種財産に編入し、一〇月末日耕作者にそれぞれ分割払下げることに協調したものであると。

この難問題処理を機に、小学校教員俸給五カ月不払の汚名もようやく清算、村をあげて相互会を結成し、更生

と滞納整理にとり組むこととなった。明るい村建設の第一歩として、懸案の役場新築のため、敷地を松の木に決