テキストを表示
処、一二年一一月着工し翌一三年六月落成式をあげた。以来みごとに民心改まり、村政の治績はすこぶる向上し
た。
柴平村の低迷
宋平村もまた、政争の村としての定評を得ていた。昭和四年六月、郡内ただひとりの政友会
政
村長として知られた児玉
)村長が、突如辞表を提出して辞任した。全村の大耕地整理よ
七
計画したが、村農会長として農会費に多額の使途不明金をだし、村長排斥の機運が高まってきたからである。こ
の後なかなか後任が定まらず、秋田魁新報は、村には不納税金整理等重大な問題が多いので村長のなり手がない
だろう、などと論評している。
勝
同七年一月、木村(
村長は一、二村議の横暴に憤慨し、辞職した。前年五月村会の決議を得て、同村鶴一
衛
と役場を結ぶ産業道路の工事中であったが、反村長派は工事の村直営を企み、指名入札に醜怪事実があるとして
県庁にその中止運動を行うなど事ごとに妨害していたのである。この時村税滞納二万数千円といわれ、新聞は
「柴平村の如きは政友系の村長となれば民政系のものが、民政系の村長となれば政友系が滞納同盟ともみるべき
ものを組織して諸税金を納付せず、この金額二万円、村農会の如きも三月限り廃止のやむなき状態にあり」と
その病弊の深さを指摘している。
八年三月村会議員五名が出市し、村政紊乱の状況について県に陳情した。政友派現村長の救農土木施行におけ
る不公平、基本財産たる学校林を村会決議なしに濫伐売却、滞納整理の怠り、小学校教員の俸給四カ月にわたる
不払などを述べ、監督是正を求めたものであった
政党勢力を背景とした村長派・反対派の紛争はなおも続き、一一年一月村長改選に際し、五対五の同点の結果