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立した。軍部急進派の荒木貞夫が陸軍大臣として入閣し、七年一月には上海事変、三月には満州国の建国宣言が
行われた。
政党政治終わる
昭和七年にはいると、既成政党と財閥への不満を募らせた右翼団体と軍部急進将校は、次々
と非合法のテロ事件をひき起こすに至った。同年二月から三月にかけ前蔵相井上準之助・
血盟団
三井財閥の団琢磨が暗殺され
団)、五月にはついに海軍青年将校らが首相官邸に乱入し、「問答無用、射
事件
て」と叫んで、犬養首相を射殺した。世にいう五・一五事件である。
内閣はやむなく総辞職したが、花輪出身の川村竹治はこの内閣の司法大臣であった。そのあと軍部などの政党
政治排撃により、中間的な挙国一致内閣がもとめられ、海軍大将の元朝鮮総督岩手県出身の斎藤実内閣が成立し
た。したがって大正一三年の護憲三派内閣にはじまった政党内閣時代は、わずか八カ年で終りを告げ、のち終戦
後まで復活することがなかった。
七年九月斉藤内閣によって満州国が承認され、次いで八年三月国際連盟脱退が行われた。軍部と右翼勢力の台
頭とともに国家主義・全体主義の風潮が高まり、思想を弾圧し学問の自由を迫害する事件が次々に起きた。その
顕著な例に八年五月の京大滝川事件がある。当時の京都大学滝川幸辰教授の著書『刑法読本』『刑法講義』が発
売禁止となり、文部大臣より京大総長に対し滝川教授の辞任要求がなされた。京大法学部教授会は、研究の自由
と大学自治への介入であると反駁し、同教授の休職発令に対し法学部全教授の辞表を提出して抗議した。さらに
同学部助教授・講師・助手ら全教官も辞表を出し、学生大会では総退学を宣言した。やがて総長の引責辞任、六
教授の辞職、特高警察の学内導入によって半年におよぶ闘争は終息したが、この事件で教授会の中心となったの