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が、花輪出身の法学博士田村徳治であった。
田村徳治は、大正五年京大法学部を恩賜の銀時計組として卒業、同九年京大助教授、同一一年在外研究員を命
ぜられ、ドイツ・フランス・アメリカに留学し一三年帰朝した。教授となってわが国初めての行政学講座を開い
て、学生の敬愛を集めていた。京大事件おこるや文部省につよく抵抗し、評議員として同僚の末川博教授ととも
に教授会の辞表をまとめ総長へ届ける役を果した。事件解決後つよく慰留されたが、学問の自由の立場から納得
できぬという声明をだし辞職した。
その後一時立命館大学に籍を置いたが、九年関西学院大学教授として法文学部の創設にあたった。一五年同学
を辞して大陸に渡り、帰国後同志社大学教授、戦後一時期公職追放にあったが、二六年再び関西大学教授に復帰
した。
粛正選挙
乙・一五事件は政党内閣に終りをもたらしたが、満州国承認、国際連盟脱退によってわが国の
国際社会における孤立化はいよいよ深まった。このような軍部の独走、ファッシヨの横暴から、
憲政本来の姿をとり戻そうとする政党政治家必死の努力も、時代の趨勢に勝つことができなかった。九年七月〓
田啓介内閣の商工大臣となった町田忠治は、一〇年一月民政党総裁に就任し二・二六事件後大蔵大臣をも兼務し
軍部の独走を抑えようとしたがついに及ばなかった。本県出身でさきに川村竹治が五・一五事件、のち町田が二・
二六事件により、大臣辞任となったのも何かの因縁であろうか。
以前より政党政治の腐敗は選挙の投票買収によるという世論が高まっていたが、岡田内閣は一〇年五月、選挙
粛正委員会令を公布し、全国道府県に粛正委員会をつくり選挙浄化運動をひろめた。鹿角郡では六月末日知事名