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錦木

花輪

をもって各町村ごとに七名一

〓)から一八名

にもおよぶ選挙粛正委員を任命した。まもなく九月に行

われる県会議員選挙と、翌年二月の総選挙にむかい、買収や違反のない「清き一票輝く日本」の実現をめざした

啓蒙運動を展開した。しかし結果は投票率の低下や、粛正委員の中から違反者をだすなどの皮肉な状況さえ生ん

だ。また軍部や右翼による思想弾圧の火の手は広がり、既に憲法学上の定説として大正デモクラシー、政党内閣

のイデオロギー的基礎となっていたいわゆる天皇機関説までが、攻撃にさらされるようになった。一〇年この学

説の主唱者美濃部達吉博士は不敬罪で告訴され、著書は発禁処分となり貴族院議員を辞任させられた。衆議院で

は政友会総裁の提案する国体明徴決議案を全会一致で可決し、政党自らが政党政治の墓穴を掘る愚挙にはしった。

政府もまた軍部の圧力により、二回にもわたり国体明徴に関する声明を出さざるを得なかった。

一一年一月、議会は、政友会の国体明徴問題について政府の態度が不徹底だとする不信任案提出により解散と

なった。総選挙の結果、政友会は前回より一〇〇名以上の議席を減らし第二党となった。もはや政党は決定的に

無力化し、ついに戦争遂行体制のなかに組みこまれていった

二・二六事件

ハ・七年の不作、八年の豊作飢饉、翌九年の大凶作、政府の救農施策は十分な効果をあげ得

ず、東北地方の農村は生活苦と借金のため、欠食児童はふえ娘の身売りが止まるところを知

っなかった。こうした農村の疲弊状況が、兵役にある農村出身者を通して軍の青年将校や一部右翼団体の胸をゆ

さぶり、急進的な国家革新運動に走らせる一因になったといわれる。

一一年二月二六日早暁、歩兵第一、歩兵第三、近衛歩兵第三連隊の青年将校ら二〇余名が下士官兵一、四〇〇

名余を率い、岡田首相(

一を襲い、斉藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監を殺害し、鈴木侍従長に重傷を負わ