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昭和に入ってからも、政府はさまざまの農村対策を展開した。六年七月、県は失業救済事業の名目で、十和田

顕勝道路改修工事をおこし、従事する北秋田・鹿角両郡の失業者の登録を職業紹介所で行った。労賃は普通人夫

九〇銭、特殊人夫一円八〇銭であったが、登録された労働者は二日間で、大館職業紹介所四五人、小坂七四人、

花輪四二人、計一六二人であった(

鹿角時報、昭六

)という。

・九・一五付

また、七~九年の三年間、時局匡救土木事業をおこした。例えば毛馬内地内古川橋などはこれに基づいて建設

された(

『秋田県史』

第六巻

○。

救済事業

わが国の公的救済制度は昭和四年の救護法制定まで明治七年太政官達の恤救規則に基づいてい

た。この恤救規則では、極貧者、障害者、老衰者など一定の条件の者に米を給付するというも

ので、例えば大湯村の大正一二年における状況は第三表にみるとおりその対象者はきわめて限られていた。

当時の貧窮者に対する救済の多くは、地元富裕者の篤志によるものであった。花輪慈善会は罹災救助・隣保救

助等を行う団体として明治三一年に発足した。会員は五円以上の寄付を行うことを資格とし、家督相続によって

継承され、管理者は町長であった(

昭和一一年『参考書)

類綴』花輪町役場

この慈善会では、米価高騰により貧民の生活が困窮した