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事典
前期
象外とされ、要救護者直接の保護請求権は認められなかった。また生活扶助該当者には選挙権がなかった一
「昭和戦
○。
の日本』
の日本』
救護法による救護実務を担当する救護委員は、花輪町の場合六名で、西村忠次郎、奈良安五郎、関善松、小田
島治右衛門、村田長十郎、阿部松五郎が任命された
鹿角時報、昭七
・六・一五付
)が、各町村ともほとんどが方面委員を兼ね
ての発令であったという。救護委員は担当区域内を巡視し、家庭訪問によって保護または救済の必要があると認
めたときは、第一種を救護法による要保護者とし、第二種を第一種以外の貧困者とする生活実態調査を行った。
一〇年、県では凶作にともなう救済施策のための資料として、現に公私の救助を受けて生活している極貧者を
第一種とし、第一種以外の貧困者を第二種として調査を行ったが、それによると、大湯町は第一種二二世帯一〇
三人、第二種二一八世帯一、二三八人で、秋田市、土崎町、大館町に次いで全県四位となり、小坂町は第一種〓
一世帯八九人、第二種三八世帯一五四人、下川大内村に次いで全県六位という実態であった
『秋田県社
会福祉史』
)。なお
このとき郡全体では第一種一二四世帯四四六人、第二種四三二世帯二、三二一人という調査結果があらわれた。
このほか、一三歳以下の子を持つ母が貧困のため生活できない場合に扶助する母子保護法や、傷病兵および軍
人遺家族の扶助のための軍事救護法などの救済制度があった。軍事救護法は一二年軍事扶助法と改称され、生活
できない者から生活困難な者へと適用の範囲を広げ、国家的扶助の義務を明らかにしていた。
昭和一〇年代前半、毛馬内町における救済にかかわる実態は次のとおりであった