テキストを表示
台とあり、荷物の輸送手段として、この時期にまだ小舟が使用されていることがわかる
目転車の普及に伴い自転車競技会が行われるようになった。しかし自転車の普及は、はじめ一般庶民にまでは
てれほど広がらなかったようである。それというのも、価格もさる事ながら年四円(リヤカーと同額)の税金が
掛けられていたからであろう。大正一一年に秋田県の自転車業者が、県当局に自転車税軽減の陳情を行っている。
その陳情書のなかでも
前略)然して一面当地方の道路の関係より見るも簡易なる交通機関として、最も重要視され地方産業上に将た社会の実
務のうえに必要欠くべからざるものとして、要望せられ居るに拘らず、尚其の普及の徹底的ならざる理由は、本県の自転
車税は他府県に比較し関東地方と異なり、積雪四ケ月に亘り自転車乗用期間至って少なき割合に甚だしき高税の嫌有之為
め(下略)
としている。
自動車の営業は県内では秋田市が最も早く、明治四五年、鹿角選出の県会議員内田平三郎が営業許可を得て、
秋田市内、秋田市・土崎間、秋田市・本荘間を路線とした
『秋田県
警察史』
。しかし、間もなく大正元年一〇月、この
営業は秋田自動車株式会社に引き継がれた。同七年末の全国の自動車の総数は、四、五三三台で、その内営業田
二、四七三台、自家用二、〇六〇台であった。東北六県では八七台、営業用七九台・自家用八台、その内乗用専
門が七六台、貨物運搬用が一一台であった。秋田県では総数一〇台で、営業用七台・自家用二台が乗用車、自家
用一台が貨物運搬用であった。
鹿角での営業が始まったのは大正九年で、毛馬内町の勝又清毅が立山弟四郎らと「鹿角乗合自動車営業組合」