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八幡平顕勝道路

八幡平の観光開発が進められると共に、道路の改修・開鑿が急務となってきた。昭和九年、

県道花輪角館線の坂比平から赤川まで、一里半の新道の造成に着手した。前述のように関

直右衛門が工事費を寄附して、上トロコまで完成した。ところがこの道路は、宮川硫黄鉱山のトラックの往来が

激しくたちまち悪路と化してしまった。

翌年も道路の延長工事が継続され、一四、五年には完成するかに思われたが、まもなく戦時体制下に入り、道

路どころではなくなってしまった。それでも、関ら篤志家の寄附と熱心な陳情により戦時重要物資輸送道路緊急

整備工事の名目をもって、一八年まで工事は継続されたがついに完成に至らなかった。

この間、八幡平遊覧自動車組合が結成され、定期バスを運行して登山・観光・温泉湯治の客の便宜をはかって

いる。

秋田鉄道の開通

かねて鹿角地方へ鉄道を計画、政府からの免許は大正元年に下り、翌二年八月秋田鉄道株

式会社が設立された。この大館・花輪間の軽便鉄道を計画、実現に奔走したのが、毛馬内

の豊口竹五郎と尾去沢の内田平三郎等であった。明治四四年に盛岡大館を結ぶ鉄道敷設の請願が、帝国議会で可

決されていたが、経費の都合から着工されないでいた。秋田鉄道は最初、「大館町から尾去沢村」に至る軽便鉄

道として敷設許可を得ていたが、諸事情により「大館町から花輪町」に至る線に変更となった。

約八キロ

扇田に本社を置き、大正二年一一月に起工し、翌三年七月一日に大館・扇田間五マイル(

)の営業が開

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