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で電信和文が開始されると三ツ矢沢を除く尾去沢村は同局の直配達区域に編入された。同年、大湯局の開始で、
大湯地区は花輪局から分割した。尾去沢地区はその尾去字を大正一〇年に花輪局区内、昭和九年に再び尾去沢局
と編入替えをくり返し、花輪局に落ち着くのは昭和三八年になる。
なお八幡平地区については、当時宮川郵便局が電信・電話業務を開始した昭和一二年六月一六日が花輪局から
の編入と思われる。
電話の普及
入正期にはいると、鹿角地方の電話は一挙に普及拡大していく。この電話架設にあたり「特設
電話」なるものが登場する。『逓信史話上』によると
明治二三年、電話交換を開始してから年々電話の申し込みは増加し、電話の架設は大都市のみ集中し、自然小都市は全
然電話の恩恵に浴することができず、これがために各地から電話架設の請願に政府はなやまされ、窮余の策として、明治
三五年から特設電話加入規則を実施し、これを特設電話、一般のものを普通電話と称した。特設電話が普通電話と異なる
点は、加入者線路およびその宅内装置は加入者をして負担せしめ、後日加入者が多くなったときは普通電話に変更し、そ
の際、線路および機械を政府に無償寄付するというまことに都合のよい制度である。(中略)交換開始が決定された地は、
将来政府において電話交換開始の場合は何時でも組合所有にかかる電話線路、電話機および附属品全部を現状のまま無償
にて政府に献納する旨の承諾書を提出してから工事が着手され、交換が開始されると大々的に祝賀会などがもよおされた
ものである。
花輪局の沿革史では「大正五年一月二一日電話交換事務開始」とだけしか記されておらず、特設電話について
は何らふれられていない。しかし当時の秋田魁新報は一月一七日付では特設電話開通期の見出しで、花輪と小坂
鉱山が弘前局との間に架設工事を完了したと報じ、一月二七日付も特設電話開通式を報道している。