テキストを表示

疝局、一人三職ではなく二人三職制とすることで実現され、昭和初期まで続いたが、いつとはなしに元通りの

人一職に復していった。

糸統農会は、予算そのものが県庁依存であり、やがて政党政治の激化にともない役員はもちろん検査員、農会

技術員、教員らまで党争・党弊にまきこまれるに及んで、十分その期待を果すことができなかった。

農村更生運動

昭和五、六年は農村の不況・疲弊がその極に達していた。当時の社会情勢は、経済恐慌〓金

融梗塞↓物価低落↓収入源枯渇↓負債の重圧↓労働および小作争議激増・租税滞納(小学校

教員俸給不払)↓農家破産へと、好むと好まざるとにかかわらず追いこまれざるを得なかった。こうした農村(

昭和一

一年

窮状がその後のわが国の政情に急進的な国家改造運動、五・一五事件

昭和

七年

)ややがて二・二六事件

などをもたらす要因になったといわれる。

昭和七年、全国農会大会は農村救済策として、〓農産物価格引上げ、〓農家負担軽減、〓農家負債整理、〓農

村自力更生事業助成などの決議を行った。その八月時局匡救臨時議会いわゆる救農議会が開かれ、九月内務省は

国民自力更生運動の開始を命ずる訓令をだし、一〇月農林省は農山漁村経済更生計画助成規則を公布した。

これより先、同年七月中央教化団体連合会による自力更生の模範村調査に対し、本県からは曙村、西目村など

六カ村を推薦した。曙村の推薦理由には「各部落の実情調査に基き産業是を確立し、山間部は茸類、ゼンマイ〓

の栽培加工、平坦部は藁工品を主とする等部落特有の副業を実施しつゝあり、これ等の統制は産業組合があたり、

又消費方面においては自家用醤油の醸造を行いつつあり」などのことがあげられている

七年一一月県は国の方針にしたがい、産業組合を農山村における経済更生運動の中心に位置づけ、強化のため