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三、農業技術の普及

耕地整理

県は明治四四年勧業是を制定し、農事の必行事項に「乾田馬耕」を、奨励事項に「耕地整理」

を掲げたが、この指導方針はその後も一貫して変わらなかった。本郡においては同四二年立山

弟四郎が初めて毛馬内森崎地区の耕地整理に着工し、暗渠排水工事の模範を示してから、次第に普及の度を高め

ることになった。

大正期の耕地整理状況は第九表の通りであるが、昭和に入って多くの紆余曲折をみたのは大湯村外二カ村耕地

整理組合であった。この耕地整理組合は大正一二年五月大湯村役場に設立総会を開き、一四万円の起債決議をあ

風張、一本木、

げ認可申請を行った。その計画は大湯村中通(

)より錦木村猿賀野をはさんで柴平村寺坂に至る一

倉沢、宮野平

帯の畑と原野二〇〇余町歩の地に、大湯阿久谷川から山伝いに用水路を取付け、開田するものであった。組合長

にはこの計画の主唱者諏訪富多、副組合長に大湯村長諏訪駒次郎が就任した。初め資金に困難を生じていたが昭

和二年一月北海道の土木請負業逢沢組と契約が成立、同三月から水路開鑿工事に着手した。翌三年一月、その殆

どのトンネル工事が竣工したものの請負者への支拂がまったく無いため、工事費一一万余円の請求訴訟が提起さ

れた。

祖合員としては、工事費の負担を月々現金支出する苦痛に耐え得ないことと、工事完成の暁にも阿久谷川の水

重だけでは灌漑不足が目にみえていることが、おもな不安理由であった。その後組合長はじめおもな役員花輪関

善次郎らの仮差押えにまで発展したが、七月に至り事業の完成が先決であるとして双方の和解がすすめられた。