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会を開き、組合長にもっとも所有反別の多い関善次郎、副組合長に奈良正次郎、児玉高慶を選出した。しかし理

事など役員のなかには時期尚早や反対を唱えるものも多く、当分延期することに決まった。この大構想もやがて

調査費中の使途不明金や村税滞納の問題で、児玉村長辞任におよんで立ち消えの状態となった。また、大正一三

年八月の県耕地整理会総会に、組合委員のメンバーとして宮川村川部組合があげられている。

昭和三年一二月の鹿角時報は、「年々拡大する整理地区」の見出しでつぎのように報じている。すなわち、本

年組合を組織して着々工事進捗中のものに宮川村深地区がある。これは坂比平から深にかけて八〇余町歩の開墾

で、水路は後生掛からの分水で長さ四里、四・五年中に賑やかな新集落が出現するであろう。北部では七瀧村荒

谷地区と毛馬内町瀬田石地区との間一二〇町歩の整理計画が、老農立山弟四郎の奔走によって同意書も集まり、

明年度から着工の予想である。目下工事中なのは、花輪町合ノ野組合で本年さらに七町歩を開田し、前年開田の

分は熟田に近い収穫があった。宮川村赤平地区の整理組合も明年早々起工の予定で、問題の錦木村松山地区は木

年順調に経過して平年作を得ている、などと記している。なお赤平耕地整理組合は三年一一月の認可、四年一一

月には、宮川村小豆沢耕地整理組合が設立認可を得て事業を開始した。

右のうち合の野耕地整理組合は昭和二年四月の起工式、初年度は赤面平約五町歩の開田とし、福士川の河底書

通工事の難事業もようやく竣工、大堰からの分水も関善次郎組合長らの努力で解決をみ、予定通り六月田植えの

運びとなった。翌三年五月、二万円の経費で据付をおえた揚水機をもって既に開田した約二〇町歩に潅水を開始

した。本郡初めてのポンプ揚水で、六月末に東京帝大農科学生らが視察に訪れている。この揚水ポンプは九年〓

なって開田四〇町歩への揚水能力が半減してきたので、従来の重油発動機を廃して北電

北海道電燈

株式会社

)の電力によ