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判沙汰の起きたことがある。最近この原野三〇〇余町歩の開墾を再計画し、大柴平を建設せんとしている、との
記事をのせている。しかしその実現は、戦後にもちこさねばならなかった
なお、昭和七年六月末現在における鹿角郡の開墾助成の状況は、認可事業八地区、その事業費六七万四千余円、
それに対する助成金交付済のものは七地区一一万六千余円であった
県はすでに勧業是としての、農事の必行・奨励事項を定め、大いに農民を指導督励するところ
農事改良
があった。大正四年末において、その実施成績を調査した結果鹿角郡は上記第一一表のような
状況であった。
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第11表大正4年必行事項実施成績
・割をパーセント表示に改めた。
(『秋田県史資料」
大正昭和編250ページより)
塩水選は、町村費の補助による塩の配布と共同作業で成果があがり、県平均をぬいて一〇〇パーセントに近い
実績であった。乾田の普及は、一般に地下水位が高いことから暗渠排水工事が必要で、相当な困難をともなって
いた。山間部に位置する本郡が、県平均に近づくのは至難
のことであった。
馬耕は耕起の能率をあげ、労力の節減を計る上からすみ
やかな一般化が望まれていた。大正初期には県農事教師を
町村に出張させて馬耕伝習を行い、のち郡農会主催の馬耕
競犂会などが開かれ、県農会技手が指導と審査のため派遣
された。また大正九年一〇月県が福岡県から招聘した実際
家による深耕実地伝習会が、柴平村において一週間にわた