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こと、馬耕・雁爪伝習会を開催し実地の技術改善を期することなどをあげている。

大正一一年一一月、県内務部長の「優良と認むべき農用器具機械普及の状況」についての照会に、鹿角郡長は

稲扱器、籾摺機、馬耕器、各町村に於て使用せらる。普及度不明」と回答している。全県的にみてこの時期、

普通馬耕器といわれるものはその使用四割五、六分に達していたが耕起の深度が浅く、その改良である深耕犂が

次第に普及してきていた。馬耕伝習もこの深耕犂の奨励に切換えられている。

正条植は、多収穫と除草機の使用の上で、その普及がすすんでいた。鹿角時報昭和六年七月の記事に「どこを

見ても正条植の田となった」とあり、同紙の一〇年六月には「県令で何ぼやかましく云っても行われなかった正

条植も、坪当り五・六十より植えなかった乱雑植より八・九十株植える方が増収あることを知ったので、ひとり

で皆行うようになった」と記されている。

大正末期から昭和初期へかけ、足踏式の回転稲扱機が急速に普及をみ、籾摺機や動力精米機などもしだいに数

を増してきた。大正一五年頃から地元新聞にも石油発動機の広告掲載が目立ってくる。昭和三年五月、合ノ野耕

地整理組合では本郡初めての重油発動機によるポンプ揚水を開始した。同三年二月には錦木村農会では小学校に

おいて機械製莚講習会を開催している。同六年の新聞には、曙村産業組合中心に数年前より製莚機を購入し、既

に五、六〇台が備え付けられている、と報じている。その後も農家の副業として製莚が奨励され、各農会で講習

や製莚製縄競技会が開かれている。

注1青年乃鹿角大正一二年七月一日付

注2鹿角時報昭和二年四月一五日付