テキストを表示

四年七月、政府の方針により県は各町村の養蚕実行組合に対し、生産基準数量を決定して繭の増産割当を行っ

た。本郡の目標数量三、三九五貫、基準数量二、三二〇貫、割当数量は一、〇六五貫であった。戦局が進むにし

たがい、その量はしだいに減り、第二一表のように終戦前にはまったく旧態を失った。戦後もわずかに姿をとど

めるだけで、ついに旧に復することがなかった。

注1『鹿角郡産業調査書』

注2秋田魁新報大正三年六月五日付

注3青年乃鹿角同一四年七月一五日付

注4秋田魁新報同一五年九月一日、同一〇月一七日付

注5鹿角時報昭和六年七月一〇日付

注6『秋田県史』第六巻、大正昭和編

六、果樹

りんご産地

本郡の果樹栽培は、りんごを主体に和洋梨、もも、まるめろ、ぶどう、さくらんぼなどその種

〓が多かった。とくに大正期のりんご栽培は県内第一位を占めたが昭和に入ってしだいに首付

を平鹿地方に譲るようになった。例えば大正九年現在のりんご樹数で鹿角郡五万三、五七五本・平鹿郡二万七、

六三五本、収穫高で鹿角郡一一万九、四六〇貫・平鹿郡九万七、〇五四貫であったが、昭和一〇年には同じく樹