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歿で鹿角郡一万九、二二八本・平鹿郡二万五、四四一本、収穫高で鹿角郡一四万四、八三〇貫・平鹿郡一九万九、
九〇〇貫と逆転された。
明治の末期からおこった腐爛病、モニリア病、褐斑病、綿虫等は、大正に入ってからも蔓延したが、栽培者の
適切な切除法の努力によってみごとに克服され、栽培面積もしだいに増加した。県農事試験場は大正二年から優
良果樹園を選んでりんごの委託試験を行うこととなり、本郡の指導地として柴平村兎沢徳蔵園が選定された。同
四年一月、明治以来の花輪果樹協会のあとをうけ、増田千代橘
郡勧業
主任
を発起人総代として鹿角果樹協会の創
〓をみ、三日市猪代治が会長に推された。同協会は毎年の果樹園品評会、年数回の果樹研究会開催などによって、
その後の鹿角りんご発展に尽した功績には大きいものがあった。
大正七、八年の頃モニリア病、綿虫など病虫害の被害がはげしく、りんご園の荒廃や廃園が相次いだが、その
再生復興に懸命の努力をしたのは、同八年鹿角果樹協会長の任を引継いだ兎沢徳蔵であった。現地へ北海道帝国
大学の星野勇三博士を招いて直接指導をうけ、さらに青森県農事試験場島義鄰技師
"後の北海道大学
総長、農学博士
)に懇願して
星野博士
冊年頻繁に教えを乞いつづけ、また同一〇年から本県農事試験場技師となった島田五郎技師
)を実地指
の高弟
導の講習会に招くなど、病虫害防除、剪定法、合理的施肥の研究とその普及に奔走した。
かくて病虫害対策が着々と効を奏し、鹿角りんごはその香気といい風味といいはるかに先進地を凌ぐとの評』
を得るに至った。やがて小坂鉱山煙害の影響の少なくないことがわかり、大正一五年その調査方を鉱山側へ申入
れ、兎沢徳蔵、岩泉和三郎、木村嘉助、橋場勇太の四氏が代表として再三にわたる交渉を行った。昭和二年から
県農事試験場によるりんご煙害予防試験が実施されることとなり、村山栄司、兎沢重太郎等に委託された。また