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第36表

豚の頭〓角郡)

〓『綜合郷土研究』より)

第37表

兎の頭〓角郡)

(『綜合郷土研究』より)

料の増産が進められ、かなり頭数をふやしたが戦中の一八年

で八七頭、一九年で六四頭といった程度であった。一方山羊

については、昭和一〇年に一四頭、一八年に六八頭、一九年

に一二〇頭、二〇年に八三頭という状況で、とくに戦中は〓

羊乳が牛乳に代わるものとして一般家庭の需要が多かった。

兎についても、大正年間はその普及が遅くあまりみるべき

状態ではなかった。昭和になって県は農家副業に絶好なものとして養兎を奨励したので、一時爆発的にその飼育

数が増加した。昭和三年の郡農会調査では、養兎数の多い順位に宮川村一、三七三、曙村一、〇二五、花輪町九

四七、毛馬内町六四六、柴平村五二七、錦木村五〇八とならんでいる。また満州事変の勃発にともない、陸軍

被服本廠の兎毛皮買上と海軍省の兎肉購入がさかんとなり、日中戦争以後も軍用の防寒具の需要がますますふミ

てきた。養兎は小学生でも充分に管理がゆき届くことから、国民学校で飼育が行われたり、児童たちによる家兎

の飼養の情景はどこにでもみられることであった。

養鶏

養鶏は、明治に引続き卵用種は白色レグホンが大部分で褐色レグホンがこれに次ぎ、卵肉兼田

種として横班プリマスロックも多かった。当時の鶏は、一般に庭先における放し飼で自由放任

のままであった。

大正の初期、鹿角は先進地としてすぐれた養鶏家たちが活動していた。例えば大湯の諏訪貞治は県の嘱託をう

け、養鶏業視察のため静岡県下に出張した。県種苗交換会における鶏の部の入賞も相次ぎ、大正元年

第三

五回

)に