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一方、花輪実業会が商取引上の因習としてその改善に取組んだものに、掛値
実際より高く
つけた値段
)と掛売(
貸し
売り
)が
あった。以前から売る側は掛値の札をつけ、買う側はこれを執拗に値切るという慣例がつづき、正札の価格表示
による公正な売買はなかなか実現しなかった。
しかもほとんどが長期貸売制度というべきものでその売掛代金の回収は年一回ないし二回すなわち旧暦の詰
歳
羽)および旧盆勘定となっていた。その結果商店の資金回転は停滞し、当然値段は高い掛値としなければなら
末
ない。花輪は物価高という悪評を解消するには、この掛値、掛売、盆・詰勘定の悪循環をたち切ることが必要で
あった。実業会は大正の頃から改善策の一つとして月勘定の普及をはかったが定着せず、昭和七年総会でもなお
月勘定励行について協議している。この時期の役員は会長関善次郎、副会長菅原庄助、幹事田中徳次郎、浅利庄
治、工藤治六、中島藤右衛門、石木田栄一、奈良安五郎、田村和三郎、関直太、土館市蔵、関栄七、田中平太郎、
石木田幸吉、黒沢吉太郎、関善松の諸氏であった
また花輪長年の商慣習として、旧歳末三〇日のない年は「わたくしだい」(〓)と称して元日にも掛取りに廻っ
ていたのを、実業会の決議をもって昭和一二年以降従来旧二八日の詰市を二七日とし「わたくしだい」は廃止し
ている。
内憂外患
昭和に入って花輪実業会は、内に外に多くの難問題に直面していた。そのひとつが花輪町内に
仲次いで二つの消費組合が設立されたことにあった。以前から農村振興運動として各町村に購
貝販売組合がつくられ、中小商工業者との間に深刻な対立関係を醸成しつつあった。それはのちに全国的な商丁
業者の反産運動に発展する、根深い性質のものであった。二年二月、まず農民組合を背景に農家の日常必需品を