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楽部を組織しその対策を練った。その宣言には「政党的色彩を排撃しつつ商に関する実践的研究を不断に続け、

新しき商道徳の確立とその遵奉に邁進せんとす」「斯くて花輪中堅として確固たる歩みを致し(略)、併せて花

輪町文化の促進グレート花輪の創成に貢献せんとするものなり」とうたい、田村英三、山崎由郎、石木田善蔵、

関善一郎、菅原俊雄らを中心に、退嬰的な空気の刷新にのり出した

同年、第五一回種苗交換会が花輪町に開催され、周辺の商人の出張販売も多くはげしい商戦を展開した。なか

でも盛岡市榊呉服店の出張売店が廉売の大売出しをはじめ、花輪呉服同業組合の狼狽と反発をまねいた。同業組

合は町役場へ抗議するなど険悪な空気に包まれたが、実業会浅利庄治、田中徳次郎らが仲に入り両者の意志疎通

をはかって円満な和解にみちびいた。この間の成行きは、一出張売店をめぐる問題ではなく、盛岡との鉄道連絡

によってさかんとなる今後の経済交流、業界共存の多事多難さを思わせる、きわめて暗示的な出来事であった。

加えて、翌七年金融恐慌の波をうけ俄然表面化した盛岡銀行整理、支払停止は鹿角の金融界に深刻な状況をも

たらし、連動して全郡的に無尽の掛金がすべて停止し休会となるなど、地域経済は四苦八苦の混乱におちいった

入正に入ると、尾去沢、谷内に相前後して市日が開設された。谷内市日は、大正六年ごろから

市日

〓『宮川村郷土読本』に記している。かくて町村の市日は、二日毛馬内、三日谷内、四日尾去

沢、五日小坂、八日花輪、九日大湯とそろい、それぞれの雰囲気のなかで賑いをみせていた。

時代の流れは、徐々に町通りの様相を変えていった。花輪でいえば、花輪駅の営業開始によって駅前が開発さ

こも

れ、旭町が新たに形を整えつつあった。また多年の懸案であった小店

)撤去が、昭和四年県道拡張工事に

よって、横丁に初めて実現した。この小店撤去の問題は、同七年実業会総会にも庇下撤廃の件として提案さ