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銀行業務
行出張所の跡にて九月下旬より一般銀行業務の営業を開始することになったと云ふ。同行の頭取は前貴族院議員本間金之
助氏にして資本金三百万円、準備積立金六十七万円、各種預金は八百余万円あり(後略)
ヨ時の銀行の様子を、盛岡銀行に例をとってみると、銀行は九時に入口の扉を開き、三時に〓
が閉じられ、就業時間は四時迄と定められていた。しかし夜間帰宅後であっても、預金者がお
れば銀行に出向いて客を受付け、また日曜日が市日であれば休日返上で客の接待にあたった。そのため毎日残業
が続いて七、八時にしか帰宅できなかったという。制服は書記補が紺の詰襟、書記は紺または黒の背広、和服の
場合は袴なしで前垂れとする規定であった。
まだ花輪に一行しかなかった当時の安田銀行花輪出張所の例をみると、大正一一年に同行の主任石川某が秋田
支店次席として転任する際の評として「町村吏員などに対し、わずか二~十分の遅刻を楯に厳として納税金の受
領を拒み、強いて頼むと叱りとばされることがあたりまえだった。それでも盛岡銀行や秋田銀行が花輪に入って
から態度がまるで改められ、客にとってはこの上の便宜がなかった」などと記されている。当時の銀行は、かな
り官僚的な威厳にみちていたもののようである。
その後経済不振が顕著となるにつれ、銀行界の動揺は大きかった。各銀行は預金の吸収に努力するあまり、預
金利息の引上げによる獲得の過当競争にまで進んだ。大正一四年秋田県下の各行はその過当競争を防ぐため、県
内を数カ所に区分し地域ごとの協定利率を定めることとした。鹿角郡の利率と秋田市・東京市を対照すると第五
六表の通りであった。