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支店となった。
昭和二年一月の第五二帝国議会において、大正一二年関東大震災にともなう震災手形の補償問題と関係銀行の
実態が追求されたことから、預金者の銀行に対する不安の念が強まり、中小銀行への取付さわぎにと発展した。
同年の三月から五月にかけ、全国で三七の休業銀行を出したこのさわぎを金融恐慌とよんでいる。なお取付とは、
銀行が預金者の信用を失った時、預金者が銀行に殺到して預金の引出しをすることである。その結果、弱小銀行
が整理され、大銀行への集中が促進されることになった。
恐慌後、当然預金者は銀行を選ぶこととなり、県内に銀行の破綻をみなかった本県においても、昭和元年末〓
五、五四八万円の預金が、二年末には五、四六三万円と八五万円の減少となっている。このことは必要以上に預
金者が地方の銀行から大銀行へ、銀行から国営の郵便貯金へと流れた結果で、金融界に資金の偏在傾向が現われ
ることになった。
銀行の取付
昭和の初期東北地方は凶作に見舞われ、特に三陸沿岸、宮城、岩手、青森各県の被害は惨憺た
るものであった。経済力の疲弊から慢性的恐慌となり、地主および富農層の没落、土地価格の
低下、農産物価格の下落による担保品価格の暴落がいちじるしかった。銀行が貸出金を強いて回収すれば融資生
の破産を誘うこととなり、それはとりもなおさず銀行自身の破綻を招くおそれから、貸出の固定化を生じ、金融
事情は一層深刻となっていった。
昭和六年に入って、青森県下の八戸銀行が取付となるや、弘前の第五十九銀行にも波及し取付が行われた。第
五十九銀行は、弘前の第八師団がシベリヤ出兵の軍資金調達が原因であると公表したが、それが直ちに大館にあっ