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無尽は、まとまった金額を調達できる簡便な金融機関であったが、希望者が何人かでせり合い高い利

せり

をつけるから、結局一割五分から二割にもつく利息となる例が多かった。一時的には相互の助け合いとなったが、

講中の貧しい者はいよいよ苦しくなり、豊かな者はますます豊かになる結果となり、ついには破産する者のでる

一方無尽成金もでる有様となった。

大正一二年六月、青年乃鹿角紙の記事のなかで、花輪一、二〇〇戸のうち無尽に加入していないものはほとん

ど無い状態であるが、この度無理算段の無尽政策の張本と目されていた某商店が、大小数十の無尽全部をせり〓

りしながら掛金不能となったことが暴露された。その額およそ一万六、〇〇〇円で、その関係する無尽は続々延

期または解散の大恐慌をきたしている、として無尽のもつ金融機関としての弱点を指摘している。

しかしその後ますます盛んとなり、昭和八年一二月の秋田魁新報には、花輪署管内の届出無尽講会数は小坂町

の三四〇口、花輪の二〇〇口、毛馬内大湯その他合せて六〇〇余口、掛金の最高五〇円、米では四斗入五俵が最

高で、最近とみに営利化され弊害がめだってきた、と記されている。

古い形を残した米無尽も一時さかんで、念仏講のおばあさん達が木の椀に一杯ずつもちよるものから、片馬

(麦)、一駄の無尽など種々催されていた。その講中は小作農が建元で、地主、自作農から蔵元がでて、三〇人位

で五〇本位の無尽が一般的であった。自作農四に地主三、小作農三の構成割合が多かったという。一四、五年に

は戦時態勢にはいり、米の統制により自然その姿を消してしまった。

無尽会社

昭和の改元と前後する頃、花輪商事会社が村山栄司らによって組織され、日掛、五日掛、十日

掛、月掛の貯金をし、資金の必要な際は低廉な割引で提供され日々あるいは月々に償還すると