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いう仕組みで、昭和二年末にはすでに百数十人の加入者があった。そののち秋田無尽株式会社花輪代理店が開店
され、三年二月その初めての新聞広告があらわれている。秋田無尽の本社は大館、社長泉茂家で、花輪代理店の
責任者は村山栄司であった。この秋田無尽花輪代理店にすこし遅れて、由利無尽会社花輪代理店が村山貞治の主
管で設けられた。確かな開設月日は明らかでないが、八年五月一五日由利無尽花輪代理店の五周年記念招待会が
花輪公会堂で開催されている。
秋田無尽花輪代理店は、無尽の加入口数約七〇〇、人員にして三〇〇人を越える盛況にあったが、その後盛岡
銀行の破綻により掛金はもとより給付後の返済金も滞り、業務の不振におちいっていた。本社においては代理店
に不当な支出があるとして、七年七月以降帳簿一切を引上げて照合の結果、翌八年一月加入者会を花輪公会堂に
開催した。しかし代理店に不正の事実はなく、原因は掛金怠納の加入者といたずらに不安を与えた本社にあると
いうことに落ち着いて加入者会は無事に終了した。
ての後、鹿角時報は、一一年三月秋田無尽の目下営業取消となり精算人において整理中とし、同じく一二年一
月由利無尽は債権者よりの破産申請の上に突如大蔵省より営業停止を命ぜられるに至った、と報じている
かくて本県は、無尽会社をもたない唯一の県といわれるようになった。一九年岩手興産無尽会社が県内進出の
動きをみせたので、県外からの新規参入は県の経済混乱を招くとして、これに対抗できる秋田県無尽金庫設立の
申請がなされた。その発起人三一名中に、鹿角郡から浅利佐助が加わっていた。
秋田無尽の創設は戦後へもちこされ、結局二四年二月内免許、同年四月正式免許をうけ、五月一日の創立、営
業開始となった。ついで同年六月には、花輪会場の開設をみている。昭和二六年六月相互銀行法の施行により無