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一年二月背後の山腹からの大雪崩に襲われて建家が倒壊し、多くの機械類を損傷した。鋭意復旧工事を進め、四

月に操業を再開し七月からはまったく旧態に復することができた。

明治以来の営々たる各鉱山の努力によって、わが国は大正二年アメリカに次ぐ世界第二位の産銅国となった。

第一次世界大戦では、軍需物資としての銅の輸出が急増し、とくに銅と亜鉛の合金による真鍮板が大小砲弾薬莢

用として大量に輸出された。このような好景気に湧いた銅の市況も、休戦と同時に大幅な下落をみるに至った。

大戦中の大正五年一二月大阪市場で百瓩当り最高値一二五円七一銭を示した電気

銅が、大戦後の八年三月には同じく六〇円九一銭と急落し、九年平均六九円八六

銭、一〇年平均五七円五六銭という安値で推移した。加えてアメリカの安い銅が

大量に輸入されたので、国内の産銅各社は生産コストの切下げと量産体制の整備

に全力を傾けねばならなかった。郡内各鉱山の施設設備の改善、技術の刷新も

この時期めざましく進んだ。

尾去沢鉱山と小坂鉱山は、鹿角盆地の南北に相対する形をとり、その間の直線

距離はわずか一六キロ

)を隔てるにすぎない。至近の位置にありながら両鉱

山のもつ性状や経営内容は、まったく対称的であった。まず鉱床は、小坂が黒鉱

の塊状鉱床なのに対し、尾去沢は典型的な鉱脈鉱床で、切羽(

鉱石を採掘

する現場

)も鉱脈

を追うて網の目のように延びる坑道に数多く分散していた。したがって採鉱条件

の不利を免がれることはできなかったが、間切法

坑道の掘進を月何間

ときめ請負わせる

)による請負

第59表尾去沢鉱山・採鉱能率の変化

(武田晴人『日本産銅業史』143pより)