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明治後半から大正、昭和前期へかけて、鉱山と地域の最大の接点は煙害賠償問題であり、鉱山の歴史の一側面は
地域との損害賠償をめぐる虚々実々の交渉でもあった。
地域の農民にとって、多くの災害をもたらす鉱山は加害者であり、憎しみの対象でなければならない筈であ
た。しかし年とともに打算にかたむき、鉱害をなくする努力より、賠償金額の増加をねがい心頼みとする傾向が
つよまってきた。大正の頃に揶揄のように語られていたのは「賠償金を高く取ろうとおもったら、うんと騒げ。
賠償金の高は、被害の程度より騒ぎの程度で決まる」という言葉や、またある人が煙害地に果樹を植え、無駄で
ないかときかれて「いや心配するな、実はならなくとも煙害がある」と答えたなどという話であった。煙害賠償
を一種の政治利権として考える者まであらわれ、煙害村長、煙害議員などのニックネームもつくられたことは
地域にとって決して幸せなことではなかった。
小坂煙害賠償
小坂鉱山の煙害問題について、はじめ毛馬内町の被害農民・地主たちは小坂鉱煙毒除害期成
同盟会を組織し、県会や議会に請願書を提出するなどの活動に入った。大正四年通常県会に
掟出された「小坂鉱山煙害除毒工事の施設命令を小坂鉱山に発令せられ度件」の意見書は満場一致で決議され、
第三八回帝国議会(
大正五年一二月開会
大正六年一月解散
の衆議院において採択された。しかしこの問題は、その複雑な要因のため
に議論の繰返しに終始するのみで、政治的な施策の上では何ら具体化するところがなかった。
大正期後半、鉱業界不振のため縮小をつづけた小坂鉱山も、同一二年銅価の騰貴にともない転炉を増設するお
ど、ふたたび好況に転じた。かっての鉱煙毒除害期成同盟会は解散し、煙害賠償は鉱山と農民の交渉の結果、五
カ年毎の契約により向う五カ年の賠償金を一括して定める方式にかわっていた。その後鉱山に同盟罷業が連続し