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〓起き、これと呼応して日本農民組合小坂支部が結成され、一五年いわゆる竹槍事件に発展した。わが国初めて
の労農提携の争議といわれたが、戦術的に成功であったかどうかは疑問である。同年一一月の新聞は次のように
報じている。
小坂鉱山の煙害賠償要求問題につき鉱山側では、農民側の要求なる五ケ年間損害の全額前拂ひはいろいろの弊害があり
その分配率にもいろいろ面白からぬ風評があるから、前拂ひを廃して年々の損害を調査した上年毎に拂ふのが妥当である
といふ理由で、全額前拂ひを拒絶する様子で、これで又一つごたごたが始まるものと見られ県高等課でも万一の警戒を
ている模様である(中略)。小坂鉱山の既往五ヶ年間の煙害賠償前拂ひ額の五万八千円は本年で切れるので、過日来小作
農民組合では本年度の損害を調査中であるが、小坂町、七瀧村を中心とし五ケ村田畑百町歩、農民四百三十名に対しての
調査だから大変なもので、約二月を要してこの程漸くまとまったもので、本月末に鉱山側と折衝を始める運びに至るべく、
やはり五ケ年の概算前拂ひを要求する意嚮で、本年の損害は甚大なものあり、従って本年の損害を標準として査定するの
だから、その要求額も約拾万円に上るそうである。
昭和二年一月二九日、小坂鉱山は前年度の煙害賠償額を総額六万七、三六九円と発表した。北秋の大館・釈迦
内分をも一部含めた金額である。この発表に、農民組合側は色めき立ち、増額をめぐって鉱山対農民組合の交渉
が何回となく重ねられたが、状況は好転しなかった。のみならず、濁川、余路米、野口の一部などの集落は農民
組合から分離し、集落として単獨に鉱山交渉に入ることを決定するなど、組合分裂の様相を招くに至った。結局、
小坂分五万一、九一八円で円満解決をみたが、農民組合は四分五裂の状態におちいり多くの脱退者を出した。
鉱山は、煙害調査に必要な正確な資料の作成と、耐煙品種育成等のため、昭和二年から農事試験場のほか小坂
一・五へ
地内苦竹に約一町五反歩(
〓)の田地を借入れ耐煙耕作法、耐煙品種試験を行い、さらに一町歩の採種田を
クタール