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中沢ダムの決潰

わが国の鉱山災害における最大規模の変災といわれた尾去沢中沢ダム決潰について、鉱山

側資料にもとづきながらその概要を記してみる。

災害の発生は、昭和一一年一一月二〇日午前四時頃であった。中沢鉱滓堆積場堰堤が突如決潰し、内部に堆積

していた廃泥が一時に激流となって流れ下り、谷合いの低地に沿う字中沢、笹小屋、瓜畑、新堀、西道口、蟹沢

の各地域を一瞬のうちに泥濘の中に呑みこみ、米代川まで押し出した。死者三六二名、流失家屋二五八戸、半壊

家屋三五戸をかぞえる大変災となった。米代川に入った泥濘は、滔々たる濁流となって下流二〇数里の能代港町

から海にそそぎ、ために近海が一面に灰色を呈したという。

鉱山では、応急処置による泥水流下の堰止が不可能なことを知るや直ちに非常警報を発した。また災害後、操

業を一切休止し、従業員を指揮し各方面からの応援者とともに、極力遺体の捜査と収容に当たった。かつ負傷者

は鉱山病院その他に収容して治療を施し看護につとめた。一般罹災者に対してはできる限り小学校々舎などに収

容し、食料寝具を配給したほか当用金を支給しその救済に力を注いだ。

同月二四日午前八時、天皇陛下の罹災民御慰問の聖旨を奉じた侍従小倉庫次は前夜上野駅を出発、花輪駅に到

着した。侍従は稲村橋からはゴム長靴の徒歩で惨事の現場を約一時間近くかけ役場へ着き、児玉県知事に対しこ

の度の惨事が両陛下の御聴聞に達し深く宸襟を悩まし給い、御救恤金の御下賜とともに御慰問のため侍従を御差

道なられた旨の聖旨伝達を行った。のち中沢ダムの跡へ登り、魔の堰堤の上に立って詳細な説明を聴取、次に負

例者収容の鉱山病院を懇ろに見舞われ、一、〇〇〇余人の避難する小学校では各部屋ごとに言葉をかけて慰問さ

れた。鹿角時報の報ずるところでは「さらに学校より屍体を収容する大盛寺に至り、仏壇の前に置かれた六十一