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新市街地

爰災後の尾去沢の復興は、これまでダム下沢合の低地にあった鉱山町や公共施設等を、すべて

軽井沢方面の高台へ移転する新たな都市計画によって行われた。

楽部(

まず一二年中に新築されたのは、職員社宅が二四棟(四三戸)、労務者社宅が軽井沢方面に甲五棟、乙一七棟、

城山方面に甲五棟、乙二二棟、ほか二戸建一棟であった。なお甲は四戸建、乙は六戸建である。これらの社宅は、

翌年以降も続々と建てられていった。

一三年に軽井沢に完成をみたおもな建物は、協和会館・附集会所

工費約八万

八、〇〇〇円

)、山神社

工費約二万

二、〇〇〇円

)、職員倶

工費約五万

九、〇〇〇円

一であった。山神社の遷座式は、一〇月一五日に行われた。一四年には鉱山病院の新築移転を

みたが、内科・外科・産婦人科・耳鼻科・眼科・歯科各室のほか、手術室、レントゲン室、物療室等を備え、普

通病室収容定員二一名、法定伝染病室は定員八名であった。総坪数四二〇坪余、工費約八万八、六〇〇円である。

そのほか一四年中に、軽井沢に武道場、大弓場、瓜畑に水泳プール、庭球場、陸上競技場、笹小屋に野球場が完

成した。

軽井沢にはそのほか町役場、警察官派出所、郵便局などを始め、鉱山購買会や一般商店などが立並び、日をお

つて名実ともにそなわる、新市街地が形成されていった。この市街地は旧市街とちがい高台に立地し、かつ東に

面して陽光をいっぱいにうけた、瀟洒たる保養地に見紛うほどに街並みの整えをみせていた。

昭和一二年日中事変勃発以後、銅の消費はますます増大した。政府の軍需用金属・資材の統制

戦時体制

強化に対応し、かって主要産銅業者古河、久原、藤田、三菱、住友の組織したカルテル

企業

連合

小曜会は、一三年二月日本銅統制組合として更生し、国内銅を一元的に配給統制することとなった。翌三月には、

水曜会は、一三年二月日本銅統制組合として更生し、国内銅を一元的に配給統制することとなった。翌三月には