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重要鉱物増産法が公布された。
四年八月、非鉄金属の増産を図るため、帝国鉱業開発株式会社が設立された。おもに休眠鉱山の開発・経営
雄勝町
を行い、社長に菅礼之助
)が就任した。三菱鉱業では荒川鉱山などを委託している。
出身
尾去沢鉱山は、一五年九月尾去沢鉱業所と改称し、同時に係制を課制とした。変災直後の一二年の産銅が、小
真木・大葛両支山を含め二、四〇〇トン台にとどまっていたが、一四年の産銅量は実に六、〇〇〇トンを超える
勢いを示した。翌一五年に七万トン増産起業として、選鉱設備・発電設備の拡張、坑内運搬系統の改善と鉱滓堆
積場の新設などの諸工事に着手した。これらの七万トン起業は、一七年にはほぼ完成し、社内外買鉱分と委託製
煉分を合せて産銅量七、三二七トンをみるに至った。このほか硫化鉱三万トン程度の産出があった。同年の五月
徳川侍従が、七月岸信介商工大臣が視察と激励のため来山した
翌一八年末、戦局いよいよ苛烈となり、軍需省は尾去沢に対し超非常増産計画として、さきの七万トン選鉱場
能力を一〇万トンに増強し、かつ製煉設備の拡張として焙焼炉、転炉を増設することなどを要請してきた。この
安請に応えるべく、全力をあげて増産に努力し、一八年の産銅高は自山鉱分七、八〇七トン、買鉱・委託製煉分
を合せて九、〇三四トンという未曽有の大記録をあげることができた。
九年には、その前半は月産九〇〇トンに達したこともあったが、次第に生産条件の悪化をつげ、硫化鉱生産
は休止し、この年の産銅高は六、二〇〇トン余に減少をみた。二〇年に入り、生産は急速に衰退し月産わずかに
一五〇トン、年産三、〇〇〇トンを割る事態となった。翌年も生産高は減少をたどり、七、〇〇〇トン台に復ー
たのは戦後の二四年からであった。従業労務者数は一四年以降三、〇〇〇人余に増加し、一九年には最大の三