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九七九人に達したが、戦後減少し二四年には二、七〇〇人の規模に復している。
友子の人々
鉱山に働く人々には、採鉱などおもに坑内作業の人たちを主体にして、江戸時代からきびしい
掟に結ばれてきた友子という組織があった。友子は、本来、独身で諸国の鉱山を転々としなが
ら採鉱の技術を錬磨した時代からの伝統的な慣習を残しながら、鉱山経営者とはかかわりのない横の繋がりで結
びあった、いわば自主的・広域的な仕組の鉱夫組合である。
したがって前近代的な親分・子分・兄弟分といった擬制的親子関係を保ちながら、その友子交際のなかで、作
よろけ
業技術の習得や災害、職業病
)、葬祭などにいたるまで互助、共済のルールがよく守られてきた
など
しかし明治の後半、鉱山は資本家による大規模経営に変貌し、鉱業技術の近代化が急速にすすむにつれ、なお
因習的伝統を固守する友子の存在は必ずしも歓迎すべきものではなくなってきた。鉱山の発展はとりもなおさず
労働力需要の増大であり、労働力確保のため大正期へかけてさかんに採用されたのは鉱夫飯場制度であった。一
の飯場制度に基づく作業請負制も、やがて採鉱法の組織化、機械化がすすむにしたがい、次第に適合性を失って
きた。経営側主導の労務管理、鉱夫技術指導が強化され、加えて労働運動の台頭、労働争議、大正一五年の改正
鉱夫労役扶助規則、健康保険法の実施などが、友子・飯場の存在を大きく揺がすことになった。
尾去沢鉱山赤沢地区における大正元年九月「山中規録謄写簿」という簿冊をみると、表紙に「赤沢区自坑夫飯
場」と書かれ、次のページに「用言」として「本規録は我々友子の交際義務の帰属すべき所を定めたる規則にし
こ」云々と記し末尾に「赤沢交際所」の名がある。規録の内容は「赤沢飯場規則」・「山中交際規則」・「山由
救助規則」で、いずれも大正元年(
明治四
五年
)改めのものである。その「山中交際規則」第一条に「当山中とは田