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郡、石切沢、赤沢、下沢の各四飯場合併して山中箱元と名称す」と定めているが、これは当時友子そのものが飯

う。

場制に吸収された形のなかにあったことを示しているように思われる。なお自坑(鉱)夫は一般に鉱山に定住し

た者を意味し、これに対し渡利鉱夫は諸鉱山を自由に遍歴する浪人をさすようになった。

右の山中規則が大正五年に改められた時点には、新表紙に「赤沢自坑夫」として飯場の名がとれ、第一条も

「当山中は交際所を設けて一般事務を取扱うものとす」に更えられている。飯場名の解かれた事情を推測すると、

大正三年四月に元山、赤沢、田郡区の鉱夫が同盟罷業に入った。争議はわずか三日で終ったが、その原因は、従

来の賃金支払方法が飯場頭の委任受領であったのを廃止したこと、鉱山が日用物資の共同販売所を設けたため飯

場頭の販売品取次が損失を受ける結果になり、数人の飯場頭が配下鉱夫を唆したことから起こった。これらの飯

場頭、主謀鉱夫等二九人は解雇処分となったが、その事件の余波が山中規則の表現の上にもあらわれたのであろ

ての後同八年の山中友子については、赤沢において除名処分とした脱走者を通告する「諸々鉱山同盟友子衆各

〓」に宛てた廻状をみると、差出人として「尾去沢鉱山赤沢自鉱夫友子一同」と記し、隣山立会として「田郡

石切沢、甲中沢、乙中沢同盟交際友子一同」を挙げている。

この山中友子の組織は、昭和一二年の報告では「当山内に尾去沢鉱山同盟友子

中石同

盟友子

元山、田郡、赤沢、

土深井各同盟友子あり、何れも夫々同盟員たる親分、兄分、子分を以て組織し」となっている。括弧内中石同

友子は、中沢・石切沢を中心とする友子の意である。その各同盟員の人数も明らかにされ、一二年九月現在とし

て次のように掲げられている。