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〓盟友子は右のような交際金や積立金等によって互助活動を行っていたが、このような交際の義務化が次第に
各自の家計を圧迫するようになった。病気負傷が長期にわたり共済の限界を越える場合には、奉願帳を発行し交
際範囲を広げて対処した。例えば大正五年改め「山中交際規則」の第二二条には「当山中は奉願帳寄附帳は青森
県青森市安方町に同盟交際事務所を設け一般事務取扱うものとす」と定められ、また赤沢自坑夫の記録に昭和八
年一二月集会決議として青森交際所へ加入人名一一名が記載されているので、この時期までは継続されていたシ
ステムであった。
やがて同盟友子の組織力は、国や鉱山の福利厚生・健康保険制度発達の前に次第に影を薄くし、とくに尾去沢
鉱山においては昭和一二年以後の労務者社宅集落集中計画、協和会あるいは部落会の拡大強化によってその弱体
化が進んだ。友子組織の解体は、終戦後鉱山労働組合結成の前後であった。
三、小真木鉱山
大正期の鉱況
小真木鉱山が、明治二一年岩崎家に譲渡され、やがて三菱合資会社の経営に移ったことは、
前に述べたところである。同三三年の報告書綴には差出人「小真木支山主務心得原田儀三郎」
と支山名があるので、既に早い時期から尾去沢鉱山の支山に位置づけられていた。
第三巻上
明治三七年において産銅額一二万八、二〇〇斤余を得ていたが(
)、翌三八年には自山製煉場を廃止し、
に掲出
本山における製煉へと転換している。大正二年、銀締坑閉塞のため逆水して白根竪坑に湧水の見込が大きくなっ