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ルので、その取明を開始した。同三年の山況で従業員一三一名、粗鉱七〇六トン、上鉱三七トン余を出している。

のち沈澱銅が増加し同五年一月一三トン余をかぞえた。大正七年「従業員一一四人、粗銅一四万斤を生産した」

とも報じられている。また同年、新坑から選鉱場付近まで自動鉄索を架設したほか、万九郎坑西方三〇間の位置

探鉱

から大森山へむけ立入

)を開鑿した。また大切坑を掘尽し、新坑や古鋪の取明にかかった

坑道

大正八年、黒鉱選鉱のため旧元山選鉱場を利用し簡便な選鉱場を設けたが、銅価急落と見通しつかぬ鉱況不白

から大縮小のやむなきに至り、鉱夫一六名を残し、休業二六名、本山尾去沢へ移る者七八名をかぞえた。同九年

米代川の増水により、銀締坑外の沈澱池に大量の土砂が混入した。九月に万九郎上部の露天掘に着手、中切坑の

研処理を終った。また翌一〇年再び米代川が増水し、石野護岸三カ所が破損流失している。

かくて一一年からは採鉱、選鉱を休止して出鉱なく、まったく沈澱銅採取のみの有様となった。そのままの状

態は、昭和六年までつづいている。

昭和前期の鉱況

伝えている。

昭和七年におよんで、ようやく万九郎、小三郎の二カ所より金鉱を出し、久々に鉱山の活

况を取り戻した。当時の新聞は、そのゴールドラッシュぶりを誇大な形容で、次のように

○三菱の経営する小真木鉱山は従業員タッタ十名、然も古い坑道から湧く鉱水から採取される水化銅は毎月八百貫、その

司有銅は平均七十五コンマ、こんなボロイ儲かる鉱山は全国中ここだけといはれて居たが、同鉱山を三百年前の昔南部十

左衛門が白根金山として稼業した当時の鉱石の残滓を最近分析したところ、金分十万分の三といふものが五千噸以上ある

こと判明、尾去沢鉱山で熔鉱する事になって羨望の的となった

秋田魁新報、昭和

七年三月三〇日付

)。