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した。

したがって採鉱部門に全力を傾注することとなり、加えて世界大戦時の

経済好況もあって、同六、七年には鉱勢のいちじるしい挽回をみせている。

この間のおもな出来事として、四年三月初め、字番取沢の上方四角嶽の

角より大雪崩が崩落し、その一部が鉱山の鑿岩機原動工場を直撃、同工場

を八分通りも破壊し、損害約二、〇〇〇円といわれた。五年には、難工事

といわれた県費負担道路・来満街道の改修について、鉱山は同街道小又沢

より鎌ノ沢間改修費として県へ一万円を寄付した。この年の秋、鉱山発展

し院内・足尾などから鉱夫の移住し来る者引も切らずなどと報じられて

いる。

この大正五、六年の頃が不老倉の全盛期であったが、当時小学生として

鉱山に在った吉沢貞一

父君は不老

倉小学校長

の回想文から、その繁栄ぶりに思いを

馳せてみる。

大正五年当時の学校は三、四学級程度の複式、本当の山の学校であった。場

所は元山の小坂鉄索の起点のすぐそばで、倉庫や荒荷置場があり、せま苦しい

余り良いところでなかった。ここから坂の下の方に郵便局や鉱山事務所、医局、

購買、クラブ、役宅などがあり、鉱山の中心部を形成していたと思われる

第75表不老倉鉱山・大正中期の状況

(『鹿角郡産業調査書』による)