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(略)大正五年頃をきっかけに山は次第に好景気となり、六年、七年と毎年のように人が入りこんで来た。世は第一次世
界大戦で、世界中が煮えくり返っていた時代である。
(略)学校は元山が狭くなり、地森という所に移されたが一年もしない中に又移されて勘平岱という処に移動させられた。
ここは三キロばかり下流の一番広い地域である。学校跡の地森には近業選鉱という、当時としては厖大な建物が山の斜
を覆うようになり、遂にはその上方に電車が走り、鉱石を運搬するなど大変な景気である。勘平岱に移てからの学校は児
童数もますますふえ、六百を越したのではないかと思われる。学級数も十一以上で各教室共にすし詰めであったことを賞
えている。
鉱山は愈々盛んになってくると沢なりに延びるよりほかない。元山の更に奥の方に春木沢という所があった。ここの高
い山の中腹に何段にも長屋が出来て、積上げたハーモニカのように見えた。向い側の山神社の台地から見て、ここを百軒
長屋ともいっていた。この山かげに細地という小さな鉱山が、一本の坑道でつながっていた。元山からだんだん下流に地
森、来満、ひだち、と谷合の両側に長屋が建ちつくした。ここから勘平岱に入るのだが、橋が境だった。すぐ下宿屋があ
り、小学校が続いていた。学校の向いにバルコニーのある極最新式の鉱山事務所、郵便局、その下に駐在所があり、石木
田雑貨店が一軒あった。他は役宅十数棟並んでいた。(略)事務所の近くに所長邸があり、ここから小沢に向う山麓に〓
楽館という大きな劇場(閉山後これが大湯に移され文化閣という劇場になる)もあった。
大正九年後半に入ると、さしもの不老倉にも休山の噂が囁かれるようになり、同年一一月の新聞報道は、銅価
-落のため殆ど廃山に近き有様などと述べている。同一一年には小学校も廃校となっていたらしく、冬の大雪〓
学校二階中央部の約九〇坪が倒壊したが「同校は鉱山事業縮小と共に廃止され目下空舎なる為死傷なし」と報じ
っれている。その後また一時的な持直しをみせており、新聞は「大直利して来た不老倉鉱山、労働者も増加し益々
景気よい」などとしながら、校舎はつぶれて児童は事務所で授業をしている、との記事を載せている