テキストを表示

閉山・再興

昭和二年二月、鉱山長は従業員一同に対し、不况による経営困難のため来る四月限り休山する

百と、就職口ある者はいつ退山しても四月までの解雇手当を与えることを申渡した。当時坑内

六・〇六

夫三〇〇名その他従業員八、九〇名、全家族一、四〇〇名とされ、積雪二丈余

)で交通はまったく杜絶

メートル

し、小坂鉱山との鉄索のみが物資輸送を支える状態であった。

坑内作業は五月三日限りの打切りとなり、わずかな残務整理要員を残して殆どが尾去沢鉱山、扇田炭鉱、磐城

炭鉱、吉乃鉱山などへと散っていった。鉱山休山により大湯村のうけた損失は大きく、従来消費されていた大湯

村産出の野菜・果物その他の食料品年間約二万円、同村収入の鉱産税、戸数割等約二、〇〇〇円といわれた

回二年一一月、鉱山の経営を大日本鉱業株式会社が引受けることとなった。大日本鉱業は椿鉱山

山本郡

八森村

)の

製煉所復活をはかると同時に不老倉の再興をも計画したものである。所有者の古河鉱業に対し借山料月四〇〇円

と諸税金負担の条件であったと伝えられる

以後、大日本鉱業不老倉鉱業所と改まり、産出の銅精鉱は毛馬内駅から積出され、五能線ぞいの八盛鉱業所へ

送られることとなった。しかしこの態勢も長続きせず、五年四月、再び不況による銅価の下落を口実に、従業旨

八○名の解雇を発表した。翌六年、さらに経営が悪化し、同八月限り再び休山のやむなきに至った。鉱夫の多く

は磐城炭鉱へ去ったという。

りち昭和一三年復活、操業を再開したが数年継続後またも休山した。同一七年、帝国鉱業開発会社が受託経営

の形で採鉱を行い、多数の従業員により活況を呈し、終戦後まで続いた。

なお、昭和八年六月、北郷松吉が下長沢合流点付近に鉱区を設定、その後中島産業株式会社が同鉱区を買収し、