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六、その他の小鉱山
田の沢鉱山
嗜村地内田の沢鉱山をめぐる鉱業権譲渡の経緯については、既に述べたところであるが、それ
以後の鉱山の状况はほとんど伝えられていない。
わずかに『鉱山と鉱山集落』
斎藤実
則著
には、次のように記されている。
明治三八年西田卯三郎これを開発、新坑・通洞坑・喜盛坑から次々と出鉱をみた。大正五年、三鉱区中西部に位する秋
採登一〇号を加賀谷務買収、鹿角鉱山として独立した。しかるに大正九年に至り、残存鉱区との境界問題が起り、一時は
採掘中止の命に接したが、その後漸く解決、昭和六年には金8~〓g、銀一、〇〇〇〓、銅一・八%の金銀鉱数一〇
○トンを産した。大戦前鉱区は一時石橋正二郎に帰したが、戦後は和田政が継承した。
これに対し残余の二鉱区九号および三三号は、田の沢鉱山あるいは本田の沢鉱山と称し、大戦前は西田和子、その後〓
塚貞夫の所有になった。
大正二年現在の郡内鉱区調をみると、曙村の採掘権者として西田市太郎の名がある。西田市太郎は天香と号し、
明治三八年京都一燈園の創始者として知られる。大正一一年の新聞記事に、西田天香所有の曙金山の採掘権に対
して、東京府大井瑾応が数千円の債権を資本家大倉、杉本両氏より譲り受けて差押えたが、天香側は金山の強制
執行を無効であると主張した、との内容を載せている。
また昭和八年一月の記事では、曙村役場より山中に一二キロ、西田天香の経営したことのある田の沢鉱山は目
下北秋田郡加賀谷源吉によって稼業、坑夫四〇名が従事し最新式のボーリングで探鉱の結果、明春一〇〇トンの