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通であった。貞行は秋田、青森両県にたびたび請願し、関係郡町村にも運動の輪を広げながら、明治末年から十

和田顕勝道路として県費による整備に入った十和田街道、さらに大正初年から始められた十和田湖岸道の改修実

現に全力を注いだ。

大正一〇年には内務省に出頭の上田村林学博士に面接して国立公園候補地編入を陳情するなど、運動範囲は広

範におよび、まさにその一生は十和田湖開発に捧げられたと言っても過言ではなかった。

宣伝広まる

明治の終りごろ十和田湖宣伝における壮挙といわれたのは、四二年七月秋田県が東都の新聞雑

盂記者団を大挙十和田湖の遊覧に招待したことであった。この東京記者団の招待は表面は秋田

魁、秋田時事、秋田公論三紙の共同主催という名目であったが、当時の県会議長井上広居が秋田魁新報社長であっ

『鹿角の

たので時の県知事森正隆を動かし、経費の大部分は県負担、地元市町村の負担もあったという

)。記者

あゆみ』

告天

遊覧団招待会の一行は東京朝日岡野養之助

)、時事新報上杉弥一郎、東京日日中野正剛、毎日毎電小野竪

一郎(

刊)、国民新聞阿部充家、日本新聞谷向梅人、中央新聞田村三治

)、萬朝報沼波武夫

)、二六新聞吉

田淳、報知新聞中村千代松一

)、都新聞中里弥之助

)、中外商業新報平林米三、やまと新聞福原敬太郎など

の東京各新聞社に、雑誌社は太陽浅田彦一

)実業之日本社永田新之允など、いずれも錚々たる一流記者で

これに地元側から森県知事、大久保秋田市長らが加わっていた。一行は院内から本県入りをし、湯沢、横手、大

曲、秋田と各地の名物や産業事情を視察し、さらに船川から男鹿を探り、能代、大館の歓迎をうけた後小坂鉄道

で鹿角入りした。小坂村で村長以下の出迎えを受け和井内出張所で休憩の後、馬車を連ね毛馬内経由で大湯に向

かった。