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この記者団一行を十和田湖に招待することになった経緯と、大湯での歓迎ぶりについて、諏訪富多『大湯の歴

史』はつぎのように述べている。

十和田湖はその絶景に於て観光の何人をも感動せしめるものでありますが、交通関係に困難をきわめ、開発は思うよ

うにはかどらなかったのです。しかし、いつまでもそのままにしておく事はできないで、熱望が各方面に高まり遂に県

や町村の関係者の具体的問題に盛り上がりました。県会議員の豊口竹五郎氏と大湯村長の諏訪巳代治は主として此の問

題に当り、時の秋田県知事森正隆氏の熱烈なる希望によって、東都の十大新聞記者等を初め、有力なる当局者を案内し

て愈々十和田湖にやって来たのであります。(略)大湯では村長はじめ殆んど総出になって馬二十頭以上を支度して〓

の十和田道の白沢部落から山を越し上げて十和田湖に送りました。それは当時の山道で、道というても笹やぶを押し〓

けて行くようなものを切り払いながら、大名行列のように皆馬上悠々とその他は徒歩で十和田湖へとあの白沢のシオコ

キ峠を登っていったのでした。(略)村民のおも立者は羽織袴で村端まで御出迎に参列し、杉の葉の大緑門は今も目〓

浮かぶようで、青年の若者組等は大太鼓を集めて一行を大歓迎しました。

十和田湖畔の宿は和井内邸で、湖上を四艘の船で遊覧してまわり湖畔に二泊、小坂を経て大館に出て帰路につ

いた。この記者団の来遊によって十和田の名声が一段と高まったことは言うまでもない。

こうした進展のなかで県が中心となり、大正元年には秋田顕勝会が組織されている。秋田顕勝会は十和田・田

沢・男鹿を中心に県内の名勝地を広く全国に紹介する目的で名勝の紹介・交通機関の設備調査及び奨励・旅館休

憩所其の他遊覧上必要なる設備調査等を事業に掲げた。

十和田湖に対する全国的な声価は、ますます上昇していた。大正四年実業之日本社の日本新三景及び十勝景の

投票において、十和田湖は日本十勝景の第二位に入選し、翌五年には中央新聞社募集の日本避暑地三景には第一