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位に選ばれた。
更に昭和二年東京日日新聞・大阪毎日新聞社主催・鉄道省後援で日本新八景の投票募集が行われた。約四〇口
秋田魁、昭二
間の応募期間で総投票数九、三二〇万票(
)といわれたが、県内の盛り上がりは他縣に比べて低く、
・六・六付
秋田顕勝会や新聞はしきりと県民の奮起を促している
結果として投票順位では一位富士五湖、二位菅沼、三位十和田湖であったが、審査会では湖沼の部の第一位に
十和田湖が推薦された。この「十和田湖日本新八景当選記念碑」は、昭和六年諏訪富多、高木新助、和井内貞時
が発起人となって紫明亭前に建設された。
十和田道
秋田県側から十和田湖へ入る観光路には、古くから二つのルートがあった。一つは小坂道で
小坂鉱山ヨリ五里半」「小坂鉱山より藤原を経て鉛山の麓に達するものにして道路稍や嶮峻
なるも青年諸士には反て趣味あらんか」、もう一路は「毛馬内町ヨリ六里半」の大湯道で「小坂鉱山停車場より
毛馬内町、大湯を経て発荷に達するものにして車馬を通ずるは此道路の外になく、二人挽ならば五時間にして達
するを得」(
『鹿角郡案内』、
大正二年刊
)といわれていた。
明治後半の標準的な観光日程は、大館から小坂鉄道
四二年
開通営業
で小坂に入り、当時東洋一と称された小坂鉱山
を見学してのち、いわゆる小坂道で十和田湖に向かい、翌日また小坂へ戻ることが多かった。
大湯道の改修は大正元年に毛馬内大湯間の新道路(中野・関上経由)の完成につづき、同三年には十和田顕勝
道路が発荷峠まで竣工し、馬車が通ずるようになった。大正九年に秋田鉄道が大館から毛馬内まで延び毛馬内駅
が開通したことから、大湯温泉を秋田口の基地として十和田湖探勝に向う観光客がふえてきた。秋田鉄道は同