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どであった。昭和九年火災で和井内孵化場と和井内ホテルを全焼したが、これによって本県側はホテルを有しな
いこととなり、秋田県側の観光客収容能力にとって大きな痛手となった。その回復のため秋田県営十和田ホテル
の建設が具体化し同一三年鉛山に落成、湯瀬ホテルの関直右衛門がその委託経営者となった。
その他の施設についてみると、大正二年遊覧者の便宜を計ることと高地の気象状況研究のため十和田湖気象観
測所が設置された。場所は和井内貞行宅であった。また同六年発荷に十和田湖郵便局ができたのも貞行の尽力に
よるところが大きかった。
大正三年には秋田顕勝会の石油発動機船南祖丸が湖上に浮かんだ。同一〇年には県会の承認を経てモーターボー
トが走ることになった。同一一年には南祖丸にかわって十和田丸が登場した。同一三年には秋田県側の発動機船
は一六隻を数えた。
国立公園指定
として採用の陳情を行っており、その行動を『鹿友会誌』
内務省が国民の保健・休養および教化に資するために、国立公園計画の実地調査をはじめた
のは大正一〇年のことである。同年二月にはいち早く和井内貞行が内務省に国立公園候補地
として採用の陳情を行っており、その行動を『鹿友会誌』
第弐拾
弐冊
)に次のように記している。
過般新聞紙上に掲載せられし国立公園とは目下内務省に於て調査中に係り之れ迄岡山の後楽園或は東山公園乃至下の関公
園の如き著名なれども要するに一地方の名勝に過ぎざるものなるが今回は更に規模を大にし国家的の大公園を作るの計画
を建て衛生局に之が調査課を設け田村林学博士主として其任に当り居れるが既に其の案の成れるものは宮崎県霧島神社一
帯の地に過ぎざるも尚より雄大なる勝地を選択す可しとの説盛にして瀬戸内海、不知火の海、箱根より富士の裾野一帯の
地、日光、十和田等尤も有力なり、勿論其箇所確定せざる内は具体的の案は建たざる次第なるも主として世界的並に民衆
的の娯楽所となす可き目的にて森林の保護、温泉の施設、道路の開拓等第一に着手せらる可し。老生は去る二月上旬上京