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藤助は焼山の麓にあった又一硫黄山を浅野総一郎から譲り受け、又一温泉とともに鹿湯へ抜ける縦走コースを

つくり、登山者団体等の案内役で先頭にたった。

阿部藤助と花輪営林署の熱心な宣伝開発によって、蒸の湯の浴客に限らず八幡平踏破の登山者が年毎に多くなっ

ていった。藤助は「俺には蒸の湯だけが残ればよい」として私財を惜し気もなく放出した。また「十和田は毛馬

内の人でやっているが、八幡平は花輪と宮川の人でやらねばならない」と口癖のようにいい、あらゆる機会をと

らえて八幡平の宣伝に努めた。

まだ八幡平の無名な頃から、村政執行者としての激務のなか、将来必ずや全国屈指の観光地として発展するこ

とを予言した先見の明は卓越していたといわねばならない。没後八幡沼湖畔に藤助神社が建立されたが、さらに

地元の新聞社は「八幡平王」の称号をおくりその業績を讃えた、

八幡平の宣伝

昭和に入ると八幡平登山の募集が相次いだ。同二年には陸中花輪駅長主催の奥羽アルプス八

佃平探険があり、阿部藤助宅で準備、頂上・蒸の湯(一泊)・焼山・又一硫黄温泉(一泊)

鹿湯から田沢湖行きと花輪戻りの旅程で実施された。翌三年には地元鹿角時報社の「奥羽アルプスの秘境/盛夏

尚残雪に埋む八幡平登山隊募集」により敢行されている。

辺年特に高められて来た登山熱は此度我が社をして本郡の所有する偉大なる宝庫とも云ふべき八幡平登山隊組織の機会

を与へました。申す迄もなく八幡平は海抜五千三百尺の高山であるのみならず、風色眺望にすぐれ且つ幾多の神秘を宝蔵

する点に於て天下に冠たるを誇るべき時機のあることを確信するのであります。我社はここに精確適切の策案に基き、先

人未踏に近き秘境の踏破探勝の計画を発表する次第であります。