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曙村長、十和田会の立山弟四郎、大湯諏訪富多、十和田和井内貞時に、仙北の田沢、桧木内、西明寺などの町村
長を加えて八幡平編入運動の発起人会が湯瀬温泉で開かれ、十和田湖国立公園地域拡張期成同盟会が発足した。
八年には前記の八幡平顕勝会組織で地元の気運は高まり、さらに同年鹿角郡町村会が編入の陳情書を大島衛生
局長に提出している。こうした地元の要請に同八月国立公園協会副会長本田静六はじめ日本庭園協会理事本郷高
徳、新居松之助、黒田鵬心、関倫三郎、電通松村大三郎が視察に訪れ、「県立公園として道路その他の施設を
日も早く完成しその結果十和田国立公園の観光系統に」云々と述べた(
秋田魁、昭八
八・二六付
。ついで内務省藤原保健課
長も来訪し、資格については充分としながら「これが十和田湖ともう一〇里近かったら」とし、道路の完成と官
伝の拡大を助言した。
その後の情勢は、十和田湖の国立公園指定がもはや時間の問題となったこともあり、八幡平について国の名勝
地としての指定を得る方向へ傾いていった。
囘一〇年八幡平田沢湖一帯を名勝地指定にと願う県の要請で、文部省嘱託名勝調査委員脇水鉄五郎、国府種徳
星
頼)らの視察があった。この時の調査では名勝地として絶賛しながらも、その指定区域に営林局と地元・県の
東
間に見解の相違があることから、円満な解決を要望している。
一一年の十和田湖国立公園指定後も、八幡平の編入運動はいよいよその高まりをみせていく。
関直右衛門の活動
五
笏瀬ホテルの創立と八幡平観光開発の功労者として知られる関直右衛門(〓
)は、明治
代
二四年二九歳にして北海道に渡り辛苦の後同四〇年札幌に居を定め造材請負業により名
を為した。その後事業の舞台を樺太、満州にまで広げながら湧払郡鵡川に関農場を開くなど、巨富を築いた。
を為した。その後事業の舞台を樺太、満州にまで広げながら湧払郡鵡川に関農場を開くなど、巨富を築いた。