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衛門は是非とも同線の延長工事を促進したいと願い、時の県会議員関威を介して県へ金五万円の工事費の指定寄

付を申しでた。これが県の受納するところとなり、九年に坂比平を起点として着工、赤川温泉あたりと一合目ま

での事業量であったが、宮川硫黄鉱山の開発はもとより八幡平登山、入湯者の為に大きな利便を与えることとなっ

た。更に豊富な八幡平国有林の闊葉樹伐採利用の外、民間山林資源の運搬にも供されていた。なおこの線は戦時

中やむなく中断放棄されていたが、終戦後復活してジープを通じ、二六年に玉川温泉までが竣工し東北各県知事

の記念試乗から秋北バスによる定期運行が始まった。

方、昭和九年十和田湖の表玄関生出にあった観湖楼和井内ホテルは、広大なる孵化場とともに不慮の火災に

より焼失した。十和田観光にとって、一ホテルの焼失にとどまらない大きな損失となるでき事であった。私財で

の復興は不可能と断念した和井内貞時に代わり、県営十和田ホテルの建設が計画された。場所は新たに鉛山が選

ばれ、一三年一〇月秋田杉の美材を惜しげなく使った秋田県営十和田ホテルが無事に完成した。

このホテルの経営は、県庁の切なる懇請により関直右衛門に委託されることとなり、一大犠牲を覚悟の契約締

結となった。鉛山の地は位置として最上でなく、時期あたかも日中戦争に際会し、観光遊覧には悪条件ばかり重

なっていた。非常時局はいかんともし難く、二年間経営担当の後、一五年七月、維持困難を理由に経営を辞退し

た。秋田県はこれを鉄道省に売却、省営ホテルとして営業開始したが、おもに鉄道職員の保養・錬成の場となっ

た後アメリカ進駐軍の接収を経て、日本交通公社の経営となった。

その後の直右衛門は、一五年満州出張中に電報で宮川村村長就任の要請を受け、就任後は私財で職員の給与を

あげて村務を督励し、役場庁舎の老朽を見かね私財を寄付して新築するなど、郷土愛に徹する行動は村民の感動