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をよんだ。

同一六年湯瀬ホテルに宿泊した平沼騏一郎

当時内

務大臣

を花輪駅まで見送って帰宅後脳溢血に倒れ、翌一七年村

長在職二年、現職のまま長逝した。

楚人冠の落馬

昭和九年、八幡平高原と温泉郷の宣伝に努めていた関直右衛門は小坂町中村次郎、花輪町根

巾吉蔵らと相談し、当代一流の記者杉村楚人冠を湯瀬温泉に招き、八幡平登山をしてもらう

計画をたてた。杉村楚人冠は朝日新聞記者で名随筆家、アサヒグラフの創刊者として知られている。湯瀬ホ

後衆議

テルにおいて朝日新聞社の秋田、青森、岩手三県の販売店大会が開催され、楚人冠のほか営業局長石井光次郎

)や重役幹部含めて一二〇人程出席、ほとんどは翌日十和田湖を探勝して帰ったが、楚人冠は直右衛門

院議長

らの強い勧めで八幡平に登ることとなった。

七月一三日ホテルを出発して坂比平まで自動車、そこから馬に乗り上トロコで乗馬交換のため馬から降りよう

として鐙に足をとられた楚人冠は逆様に転落、左手骨折という「落馬事件」をおこした。柔道三段の石井局長の

整骨

〓急処置をうけて戸板で下山、坂比平で待機していた「永田のセガリ」

の手当てをうけ、谷内の阿部藤

助宅で休養、翌日から湯瀬ホテルで静養することになった。事の次第はそれだけであったが、この事故はたちま

ち国内はもとより海外にまで「湯瀬発、楚人冠八幡平で落馬」と報道された。秋田県八幡平と湯瀬は瞬く間に天

下に知れわたったのである。

怪我癒えた楚人冠は、帰京後事の顛末を次々と「落馬記」「傷害保険」「落馬余録」「報謝行」と題しアサヒ

グラフなどに連載した。