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八幡平にはこれといった著名人の足跡がなかったので、トロコの現場に楚人冠撰・書の「我行荒草裏汝又ス
深林」を刻して『落馬記念碑』を建立、八月二七日楚人冠臨席のもとに除幕式を挙行した。その折の随筆が「八
幡平再挙」除幕式・天下の珍湯-フケの湯・八幡平の頂上・八幡平の谷地と谷地目・後生掛から焼山越・八幡平
の勝景とその発見者・玉川温泉とその付近と写真付きで掲載されるに及んで、八幡平は一挙に全国に紹介されて
いくことになった。
山の案内人
八幡平の紹介と宣伝は、宮城佐次郎に始まって鹿角時報社の川村薫はじめ高瀬貞之助、田口定
古、中村次郎らの地元記者と秋田魁新報の八幡平踏破記事によることが殆んどであった。
阿部藤助や五代ならびに六代関直右衛門という大先達に対する尊敬とともに、その信頼に応えようとして、山
の案内役に献身した人たちもまた、八幡平開発の恩人にほかならない。昭和六年七月一日付秋田魁新報は「登山
者を待つ八幡平に二人のガイド/あふるゝ人情味で/急がず慌てずひたすら宣伝」の大見出しで、大槻恵蔵と阿
部常蔵の功績を取り上げている。
阿部常蔵は、八幡平とともにその登山者たちにもこよなく好意をもち、「常蔵さんは語る山にのぼる時は無
理をするなよ、山を馬鹿にするなよ、急がずハラをへらさず雨に気を付けて谷間の俄か水に心をゆるしてはなら
ぬ」などと助言していた。
大槻恵蔵は長く校長を勤めたが、八幡平を訪れる人のために労を惜しむ事無く無料で案内を奉仕し、遠足の子
供たちから学術調査の人にまで快く応じた。大正一三年大館中学校教諭小野進の後生掛の泥火山発見に立合い、
牧野富太郎の植物調査の案内にも同道している。